白鷺の御名号


親鸞聖人御直筆の六字名号。
親鸞聖人は35歳の時、当時の既成仏教などの念仏弾圧により越後国国府に流罪に処されます。そのとき、雪の降る臣田の浜で、「声なくば 何をそれとも知られまじ 雪降かかる 芦原の鷺」とお詠みになり、雪の中の白鷺が鳴き声を出さなければ、それとわからないのと同じように、ひとそれぞれは自らご信心を得たと思っているが、その心得についてお互い話し合ってみると、心得違いをしていることもあると教化されました。

了海上人の木像 国の重要文化財

善福寺住職八世了海上人の木像は、鎌倉時代の製作と推定されています。7歳で仏門に入り比叡で弱冠17歳で顕密二法を修めた俊英の僧であった了海上人は、流されていた越後から京に上る途中に訪れてきた親鸞聖人の高徳に傾倒して、一山をあげて真言宗から浄土真宗に改宗しました。関東一円に浄土真宗を広めた了海上人は、「大谷遺跡録」に関東六老僧のひとりとして名を残しています。
顕如上人からの旗印 非公開

戦国時代、浄土真宗は庶民の間に広まり、一向一揆を背景に石山本願寺で織田信長と戦火を交えるほどの勢力となりました。関東を代表する当寺は、籠城する大阪石山本願寺に援軍を送り助けました。旗印は、そのとき本願寺十一世顕如から駆けつけた援軍に贈られたものです。
豊臣秀吉の朱印状(禁制)

当寺は、文永3年(1266年)8月10日、亀山天皇の勅願寺となり、北条、足利、豊臣、徳川等諸家より朱印を下附され保護されていました。
天正18年(1590年)3月、豊臣秀吉は小田原城を攻め落とし関東の八ヶ国を手に入れると、徳川家康と協議のうえ、寺院、および、神社の施設は戦乱から保護するとして、寺領においての略奪、暴行、放火、迫害の行為を禁じました。
金泥八字之名号


了海上人が、親鸞聖人から関東有縁の門信徒への形見として授けられた天下無二の至宝。

顕如上人御消息

石山合戦の時、本願寺十一世顕如上人が当寺に宛てた書簡。
長引く大阪石山本願寺と織田信長の争いである石山合戦は、朝廷の斡旋により和睦を結びましたが、この書簡からは信長が心変わりしないか不安であったことがうかがえます。
教如上人御消息

大谷派本願寺十二世教如上人が、石山合戦の時、当寺に宛てた書簡。
ハリスの記念碑

駐日公使タウンゼント・ハリスのもと、安政6年(1859年)から明治8年(1875年)まで、初代アメリカ合衆国公使館であったことを記念する碑。
攘夷を唱えるひとびとの襲撃を受け、庫裡、書院などが焼失しますが、僧たちの機転によって身をもって公使館員を守り日米の友好の絆を深めました。